- 第二次世界大戦勃発及びヨシフ・スターリン -
第一次世界大戦及び世界恐慌、第二次世界大戦から冷戦終了までの史実を簡単に紹介してるのですが、あくまでもロシア経由で旅をする為の予備知識として掲載しています。説明不足や欠落部分については御了承下さい。また、ロシアを知る上で必要と思われる周辺諸国の歴史的概要にもフォーカスしていますので、ロシアから話が逸れる場合もあります。
※ wikipedia参照。
第二次世界大戦勃発及びヨシフ・スターリンの歴史を追ってみます。
ナチス・ドイツ、アドルフ・ヒトラーにとっての誤算は、ポーランド侵攻の二週間前に結ばれた、イギリスとフランスの対ポーランド援助条約でした。ヴェルサイユ条約を一方的に破棄、ドイツ再軍備宣言を果たしたヒトラーに対し、平和主義に傾いていた各国はドイツの行動を黙認していました。1938年ヒトラーは更に、第一次世界大戦後チェコスロバキアに割譲されたズデーテン地方の併合を要求します。この問題に対し、イギリス、フランス、イタリア、ドイツによるミュンヘン会談が行われます。戦争によってでもズデーテン地方を獲得すると主張したヒトラーに対し、イギリスの首相ネヴィル・チェンバレンとフランスは宥和政策を取り、これ以上領土要求をしない、という約束の下ズデーテン併合を容認ます (イギリスは軍備を整える為の時間稼ぎが必要でもあった)。しかし1939年3月、ドイツはミュンヘン協定に反しチェコに侵入、チェコスロバキアを解体、併合しました。これを受け1939年8月、イギリス及びフランスはポーランド相互援助条約を締結します。
宥和政策を目の当たりにしていたヒトラーは、ポーランドにおけるイギリス、フランス両国の行動をブラフと読んでいました。が、相互援助条約に基づき、ミュンヘン会談を反故にされたイギリスとフランスは政策を転換、1939年9月5日ポーランド侵攻を行ったドイツに対し宣戦布告をします。ここに世界の主要国が二つの陣営に分かれて行う、人類史上二度目の世界大戦、第二次世界大戦が開戦します (ちなみに第二次世界大戦の開始時期には、少数ながら諸説あります)。独ソ不可侵条約を理由に、同じくポーランド東部へ侵攻したソ連に対する宣戦布告はありませんでしたが、ソビエト連邦はその後フィンランド侵略を開始、冬戦争と呼ばれるこの行為により、1939年12月14日国際連盟から除名処分となります。
ソビエト連邦では1924年1月ウラジミール・レーニンが死去、その後ヨシフ・スターリンが権力を掌握していました。スターリンにとって最初の政府役職は民族人民委員でした。続いて共産党政治局員となり、1922年4月には共産党中央委員会書記長に就任、権力の地盤を築きます。生前、個人への権力集中にレーニンは警鐘を発し、その遺言ではスターリンへの罷免を要求していました。しかしその要求は中央委員会のメンバーによって伏せらます。レーニンの死後、スターリンはレフ・カーメネフおよびグリゴリー・ジノヴィエフと共に、左翼のレフ・トロツキーおよび右翼のニコライ・ブハーリンの間で党を管理します。この期間、スターリンは従来のボリシェヴィキの理論、世界的革命を放棄、一国で共産主義を構築する政策を支持します。彼はニコライ・ブハーリンと行動を共にし、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフと対立することになります。しかし、戦争と内戦に疲弊した大衆を味方につけていたスターリンは、1928年にトロツキーを中央アジアのアルマ・アタ (現在のカザフスタンのアルマトイ)へ追放します。1929年には更にトルコのイスタンブルへと国外追放、そして1940年8月20日ラモン・メルカデルにより、ピッケルで後頭部を打ち抜かれ、翌日収容先の病院で死亡します (この暗殺が、スターリンの指示によるものということが情報公開により明らかになりつつある)。
カーメネフは、スターリンの一国社会主義に反対、共産党に首領はいらないと主張しました。また、ブハーリンに対しても彼の経済政策を批判します。しかし、基本的に穏健で知識人的なカーメネフは、権力闘争でスターリンに敗れ、1926年政治局員を解任、商業人民委員、駐在イタリア大使に降格されます。更に翌1927年、党を除名されますが、第15回党大会で自己批判をし、1928年に復党を許されます。以後は閑職に回されながら党除名と復党を繰り返し、1934年にはスターリンを崇拝する演説をする羽目にまで陥ります。1934年12月セルゲイ・キーロフ暗殺事件をきっかけに大粛清が開始され、カーメネフは逮捕、党を除名されます。1935年のモスクワ本部事件で禁固5年の刑に、翌1936年別件で禁固10年の刑、合同本部事件を処理するモスクワ裁判でジノヴィエフと同様にスターリンの奸計に嵌り、処刑を逃れることを条件に有罪を自白しますが、1936年8月25日銃殺されます。
ジノヴィエフはレーニンの晩年から政治局でスターリン、カーメネフと同盟を結び、三人組 (トロイカ)を組んでトロツキーと対立、結果としてトロツキーの失脚と国外追放に関与することになります。
1924年レーニンが死ぬと、ジノヴィエフは、党の最高実力者の一人となるのですが、スターリンが書記長として権力を集中している事実に危惧を覚え、1925年レニングラードの党組織を中核とした新しい反対派を組織します。第14回共産党大会では、スターリンの一国社会主義論に反対、党の非民主的な指導と官僚主義的統制を批判、対立していたトロツキー及びトロツキー派と合同反対派を結成します。しかし1926年に政治局員とコミンテルン議長を解任され、党を除名されます。翌1927年第15回党大会で自己批判し、1928年復党、カザン大学学長、共産党機関誌ボリシェヴィーク編集部員を務めるのですが、1932年再度党を除名、カルーガに追放されます。1933年復権しモスクワに帰還を許可され、ソ連消費組合中央連合幹部会員に選出されますが、1934年第17回党大会の演説ではスターリンを称えるまで落ちぶれます。しかし、大粛清はジノヴィエフとその周辺にまで及びます。セルゲイ・キーロフ暗殺事件を巡り、ジノヴィエフは党を除名、逮捕されます。そして1935年禁固10年の判決を受け、ウラルの政治犯収容所に入ります。翌1936年のモスクワ裁判において、1932年にスターリンなど党指導部に対するテロが計画されたという合同本部事件で告発され、ジノヴィエフはスターリンに生命の保証を約束され有罪を認めるのですが、1936年8月25日カーメネフと共に銃殺されます。
ブハーリンもまた、一時スターリンと組んで党内主流派の一角を占めるのですが長くは続きませんでした。トロツキーとの権力闘争において、ブハーリンはトロツキーを厳しく批判しますが党からの除名には反対します。その後工業化と農業の集団化を巡りスターリンと対立するようになり、アレクセイ・ルイコフ、ミハイル・トムスキーと共に政治局内で反スターリン派を形成します。しかし、逆にスターリン派から右翼として批判され、党、政治局員、プラウダ編集長、コミンテルン議長を解任されます。一度は失脚したもののファシズムの台頭を危惧、自己批判をしてスターリン支持を表明します。1934年には党中央委員候補、イズヴェスチヤ誌編集長として復帰、1935年の新憲法、いわゆるスターリン憲法起草にも参加すます。しかし、1936年大粛清が開始されると、イズベスチヤ編集長を解任、党中央委員会に喚問され、スターリンによって捏造された資料が提示され批判を受けます。
1937年ブハーリンとルイコフは党中央委員候補を解任、党から除名されます。同年2月に逮捕、その前夜、ブハーリンは夫人のアンナ・ラーリナに名誉回復の上申書を記憶させました。1938年3月のモスクワ裁判において、スターリンに自らの罪を認めれば死刑の免除、また妻子を助けるという約束で有罪を認めます。しかし、ブハーリンはファシストの手先として1938年5月13日銃殺されます。
ちなみに1934年12月1日、レオニード・ニコラエフという青年に暗殺されたセルゲイ・キーロフは、スターリンの忠実な部下でもあったのですが、意見の相違もあり、多くの歴史家はスターリンが彼を潜在的な脅威として考えていたとしています。また、ニコラエフはスターリンの命令によって暗殺を実行した刺客と考えられています。
こうして、セルゲイ・キーロフ暗殺事件を契機に、1934年から1938年に掛けて行われた独裁者スターリンによる弾圧と殺戮、いわゆる血の粛清は、国民や党員を含め2000万人に及びました (正確な犠牲者数は未だに不明)。しかし、スターリンがナチス・ドイツから祖国を守ったと英雄視する人も少なくありません。